同盟育成会

    公益財団法人 同盟育成会は、戦前の同盟通信社(現在の共同、時事両通信社の前身)の流れをくむ財団で、経済的に苦しい青少年の学業達成を支援するため、学生寮「同盟学寮」と、「古野奨学金」を運営しています。

 当会は、これら二つの事業を通じて、「社会有用の人材を育成に資するとともに、教育の機会均等に寄与する」ことを目的としており、平成23年に、内閣総理大臣から公益財団法人の認定を受けました。

 

同盟育成会の沿革

同盟育成会 70年史
同盟育成会 70年史

 同盟育成会は昭和15年(1940年)8月、文部省(現在の文部科学省)から設立を認可され発足しました。設立の申請者は、同盟通信社長の古野伊之助氏。古野氏は、同盟通信社の常務理事だった昭和13年ごろ、当時の同盟初代社長の岩永裕吉氏に青少年の生活と教育・育成の場の必要性を相談、既に若者への教育の場として自宅敷地を開放するほど教育熱心だった岩永氏もこれに賛成したことが設立への発端となりました。

 2人は昭和14年4月、同盟通信社の自社施設として「社内で働く青少年の生活改善と訓育」を目的に「同盟学寮」を設置。これを運営する組織として財団法人同盟育成会を創設することにしました。

 設立にあたっては、同年9月に急逝した故岩永裕吉氏のご遺族のほか、古野氏自らが私財を寄付。特に岩永家側からは莫大な寄付を受けました。また、同盟通信社の強力なバックアップにより財政基盤を固めています。 

 

 戦後の同盟通信社解散後は、その後身である共同通信社と時事通信社の支援を受けながら、

事業を存続。昭和40年には、古野氏が2年前に受賞した「新聞文化賞」の賞金などを基に、「古野奨学金」を創設しました。

同奨学金は当初、高校生、大学生を対象とした貸与型でスタートしましたが、平成21年(2009年)に大学院生、平成27年からは学部学生に対する給与型奨学金を開始するなど、古野氏の遺志を継いで支援の充実強化に努めています。

 平成22年には創立70周年を迎え、創設者の足跡を記録して後世に語り継ぐため、「同盟育成会70年史」を刊行しました。 

 平成23年には新公益法人制度の下で内閣総理大臣より新たに公益財団法人の認定を受け、同年4月1日に新法人へ移行しています。

 

肝据わった苦学力行の人 創設者・古野伊之助氏

故古野伊之助氏の胸像
故古野伊之助氏の胸像

 同盟育成会の創設者、故古野伊之助氏は、まさに苦学力行の人でした。明治24(1891)年11月、現在の三重県四日市市の小さな手織り機屋の長男として生まれましたが、4歳で父親と死別。15歳の時に英語を学ぶため単身上京し、洋品店や株屋で住み込みで働きながら、夜学の英語学校に通い猛勉を重ねます。

 明治42年、たまたま買った夕刊紙に載っていた広告を見て東京・銀座にあった米AP通信社と英ロイター通信社の共同事務所に給仕として月給8円の職を得ます。AP通信のケネディ東京支局長が古野氏の英語の能力の高さを認め、社員に登用します。財団法人新聞通信調査会発行の「古野伊之助」によると、この時、支局長は古野氏が翻訳した英文を読んで「ミスター古野、君はもう給仕ではない。今日から社員だ」と述べ、この月から給与が大幅に増額されました。これをきっかけに古野氏はジャーナリストの道に進みます。後に47歳で国家代表通信社(ナショナル・ニューズ・エージェンシー)だった社団法人同盟通信社の社長に就任。さらに、昭和20(1945)年には貴族院議員に勅選されています。

 同年4月、日米両国が激戦を繰り広げているさなか、ルーズベルト米大統領が死去。この時、鈴木貫太郎首相が「米国民に深く哀悼の意を表する」との談話を発しましたが、この談話を自ら英文記事にして北米向け放送で流したのは古野社長でした。

国内の各新聞は、「天誅下る」などと論じる中で、同盟の対応は極めて異例なもので、ニューヨークタイムズなどがこの談話を報じました。

 米国に亡命していたドイツの文豪トーマス・マンは、「日本は米国と生死を賭けた戦争をしている。しかし、あの東洋の国日本にはいまなお『騎士道精神』と人間の品位への感覚がある」と、高く称賛したとされます。

 また、同盟は、昭和20年8月10日夜、日本政府が条件付きでポツダム宣言を受諾する用意がある旨、対外放送で連合国側に発信しました。最終的な同宣言受諾の4日前のことで、古野氏が許可してのことでした。軍部が徹底抗戦を主張する当時の状況の下で、第3の原爆被害を防ぎ、戦争を終結に導くための命がけの決断ともいえ、古野氏の肝が据わった人物像が浮かび上がります。

 一方、古野氏は終戦後、同盟通信の自主的解散を断行しました。大手新聞が新たな通信社の設立に動くといった中で、同盟が存続すれば新通信社派と同盟派とでマスコミ界に大きな亀裂が生じかねないとの判断からでした。古野氏の構想に基づき、社団法人・共同通信と株式会社の時事通信が発足しました。

 こうした業績などが評価され、古野氏は昭和38年、わが国マスコミ界では最高の栄誉である「新聞文化賞」を日本新聞協会から贈られています。

 古野氏は昭和41年4月、同盟育成会の現職会長のまま亡くなります。青少年の支援に情熱を捧げた人生でした。

昭和14年9月、岩永氏死去の後を受けて二代目の同盟社長となった古野氏。(昭和15年)
昭和14年9月、岩永氏死去の後を受けて二代目の同盟社長となった古野氏。(昭和15年)
同盟社長室には絶えず各界の要人が訪れた。 左から松野只一、原邦造、黒沢酉蔵、有馬頼寧、古野伊之助(昭和19年)
同盟社長室には絶えず各界の要人が訪れた。 左から松野只一、原邦造、黒沢酉蔵、有馬頼寧、古野伊之助(昭和19年)